誰かと居たい。
誰かと居たい。その想いが日に日に増していく。
独り暮らしをしてきて精神的、心理的限界が見えてきたかもしれない。
好きな女性と付き合えるならそれに越したことはないわけで。
ただ、理想はなくともお互い惹かれあう、お互いがそばにいることでお互いの力になれる。そんな関係が大切だと、そう悟った。
街中を歩いていると当たり前のように手をつなぐ男女二人組を見つける。出会いが欲しいなら外に出ろ。
最近では学生時代に知ったあることが気にかかるようになった。それは愛人がいますよという目印の指輪。この人いい人だなぁと思っても指輪…。
帰っても当然誰もお帰りなんて言ってくれない。その日々が今途轍もなく苛立つ。寂しいを超えて、虚しいを超えて。せめて同世代の女性と週何日か会って言葉を交わせれば180度今は変わるだろう。
今何で後悔するのだろ、こんなことで。もっと学校生活楽しんどきゃ…。誰かと居ないとつまらない時間に襲われ続けていく。ホントに怖くないけど悩ましい。
話は変わるが私には愛される人、私を愛す人はいても、私が心から愛する人はいない。大学で学んだが最初の愛する人は母親父親だそうだ。
だが、私には父親しかいない。母親は死んだ。正直この事実を知ったのが3歳。
それから11年、母の実家に行ったとき初めて母の姿を遺影で見た。そして7年、父から母の死んだ理由を聞かされた。これらの中で一番ショックなのは母のすべてを知るのになぜこんなに月日が経つのだ?
ということだ。父は愛する人ではない。虐待が理由ではなく接する機会が30%にも満たなかったからだ。
私は父が私を放棄したように私も父を放棄する。
だが、母の墓参りは続けるようにする。たぶんその都度泣くだろう…。
死ぬのはいいけど、何で死んだか理由を遺してから死んでくれ。
私が25年、四半世紀、生きている中、あるバンドの曲の象徴を常に胸に抱いている。
バンド名:Asian Kung-Fu Generation
私が中学でいじめでズタボロにされ明けた春に聴いた曲
「ソラニン」
その象徴は「ゆるい幸せの末の別れ」
私が大学で充実して輝いていたと自負できる頃に夢中で聴いていた曲
「ブラッドサーキュレーター」
その象徴は「情熱を燃やしながら生き、愛を分け合おう」
愛。 それが、ふらっとやってきてくれるよう願うばかりだ。