西翔記(さいしょうき)

私の日々の生活での記録、記憶書(アウトプット)の場です。

社会倫理と個人の責任

河西です。

少し古い文献が出たので載せます。これからの道徳倫理のため。

最近、若者が人を殺す事件が多発している。

彼らは人を殺すことが悪いことだと知らないわけではないし、自分の冒した行動にも

後から反省している。

では、なぜこのような状況になってしまったのだろうか。

それはたぶん、近頃の若者がものごとをよく考えないで行動するからだと思う。

だから、若者に我慢が足りなくなってきたという意見に、あえて反対しないし、

それに通じるところはあると思われる。ニュースで殺害の動機を報道しているが、大概が邪魔だから殺したという例ばかりだ。

人は自分を不快にさせる者は、皆邪魔者と判断する。しかし、自分もその人にとって

邪魔であることをしろうとしない。いや、考えないものかもしれない。だから、その人

との関係を深めないようにすればいいものを、その人を殺すということで解決して

しまうのである。これは、精神的に弱いからだと私は思う。若者は、精神が未発達の

状態であるからかもしれない。周囲とのコミュニケーションも一つの精神発達の段階

なのかと思う。

人を殺すことは、法律で決められているようにいけないことである。それは、生きる

自由あるいはもろもろの人の自由というものをうばい取ってしまうことでもあるし、

これからの自分の自由(将来)を自らの手で壊してしまうことでもある。だから、私は人を殺そうとも思わないし、自殺しようとも思わない。もっと熟考した行動を互いにとり合うようにしてほしいものである。

 

人を殺すということは、人間として最もやっていけない行為である。テレビや新聞で殺人という言葉を聞かない日がないほど殺人事件が毎日起こっている。中には体をバラバラにしたり、暴行を加えた上で生き埋めにしてしまうような、人間とは思えない残忍な方法で人を殺す。そして、最近特に17歳の少年による殺人事件が顕著になってきている。これらの少年が人を殺してしまう原因は、自分が気に入らないことによる一瞬の感情的な高まり、要するにキレて犯行におよんでしまうのだと思う。今では裁判にかけても刑期が短かったり、被害者の遺族が望むような刑罰が科せられなかったりする場合がほとんどであるため、国会で少年法の見直しが検討されるほど重要な社会問題にまで発展している。

人が人を殺す理由として3種類ほどあると私は考える。

1つ目は前に述べたように衝動的な感情に駆られ、キレて人を殺してしまう。

2つ目は、ねたみ、恨みからくる人間関係の悪化だと思う。誰でも陰で嫌みを言われたり、自慢されたりするのは嫌である。そんなことは気にしない大らかな人であればよいが、そういうことの受け取り方は人それぞれであるから、そういうわけにもいかない。以前、近所の人に嫌味を言われ続けてきたために、その人の娘を殺してしまったという悲しい事件があったが、この場合は一時的ではなく、長期に渡る恨みが蓄積して、精神的に耐えきれなくなり犯行におよんでしまったものだと思う。自分でもとんでもない行動を起こしてしまったというのもあると思う。

3つ目は、快楽殺人者。本でしか読んだことがないのでよくわからない

けど、これらの人は幼い頃に、両親から虐待を受けている場合が多いらしい。

他にも、国のためや、宗教的対立、民族紛争などいろいろな理由がある。このように自分たちが納得いかない事に対しては、犠牲者を出してでも解決していまのが人間の本能なのかもしれない。だからと言って殺人を肯定することはできない。これから先、「人を殺す」という愚かな行為の過ちに気づき、世界中の誰もが人生を全うすることができる日が来ることを私は願う。

 

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以上です。

 

長々と失礼いたしました。

 

ここまでご高覧頂きありがとうございます。

 

では、また!